☆仙人さんの掲示板より☆ -No2-

     ☆ 仙人さんの掲示板より ☆ -続き-


私が安寿姫塚を初めて訪れたのは、長男がまだコーデュロイの靴を履いていたころですから、20数年前のことです。したたるように濃い緑の中にアジサイが数知れず咲き広がっていて、山に囲まれた小天地は桃源郷のようでした。その奥に安寿の祠は深い木立の中に鎮もっていました。その遥かな静寂が安寿への鎮魂の祈りを誘うようでした。安寿への愛惜は、子育てを始めたばかりの私には限りない激励となるものでした。子どもを抱き上げたときの快い重さ、無邪気な笑顔の何にも変えがたい尊さ、名前を呼べば振り返る子どもの中の愛情の働き。私の胸に「恋しや ほうやれほう」という声が響きます。
 昨晩その子の就職が決まったという知らせを聞いて、もう今は見守ることしかできない親は、昔のひと時を思い出していたのでした。
 私は五月晴れの中のアジサイが好きで、庭にも10本ばかり植えています。そういえば初めて作った短歌もアジサイを歌ったものでした。
 アジサイの薄紅色になりてなお
     ひとつふみ綴りおり心あわせえず
 霊重さんのことなど言えないほど下手で、そのときには字余りに気づかなかったというオチまでついています。 (11月23日12時0分)

 数年前の1月20日(たぶん)朝8時、国道175号線から178号線へ、藤津峠を越えて大川橋を渡り、右折したところでなにげなく右手を見た私は、思わず声をあげそうになりました。
 大寒のさなか、霙のような雪が降っていましたが、雪雲を通して日のさした建部山が、弟が描く日本画のとおりに目に映ったからです。少し灰色がかったお定まりのトーンの中に、淡彩で描いた山容が、一幅の絵のようにそこにありました。
 弟は大津で医院を営みながら日本画を始め、大津市展でグランプリを受賞するまでになっています。初期の作品はお定まりのトーンのものが多く、平山郁夫張りだねと冷やかすと、あまりいい顔をしません。本人は好きな奥村土牛の色づかいをアレンジしているつもりのようです。
 時々思い出したように帰ってきては、舞鶴の風景も描いています。今度建部山も勧めてみようと思っています。もっとも気に入らないと「千ゆうても万ゆうても」聞き入れるヤツじゃありませんから、あてにはなりませんが。
 あれ以来同じ表情の建部山を見ていません。雪に光り輝く建部、あわあわとコブシを散らして笑う建部、夏空にくっきりとそびえる建部、いろんなカオを持っています。東側から見た出来そこないの富士山のような建部を毎日見ていますが、実はあまり好きではありません。優美な岩木山と比べてしまうからでしょうか、「しゃきっとせー」なんてハッパをかけたくなるのです。
 建部山は由良川から見るに限ります。毎日見ているぴょんこさんが裏山しい。
 ぴょんこさん! 毎日でも建部山の様子を教えてください。そうでないと遠距離恋愛の定めに陥りそうです。すぐそばなのに、遥かなる建部山。私の憧れは果てしないようです。 (11月24日15時55分)


 「田辺怪談録」は、江戸時代の初めに田辺城下で起きた化け物騒動を描いた小説(?)ですが、実録としてよく知られた物語でした。その初めの部分にどういうわけか田辺領内の名所旧跡めぐりがあり、安寿と厨子王の物語もあるのです。いまだ研究は進んでいませんが、とりあえず紹介します。

 (中山)この川下は、由良・神崎などいう所にて、昔より塩を焼きぬる所なり。犬打つ童子(わらべ)まで語り伝えぬる山椒太夫という者は、この由良の者なり。今に山椒太夫の屋敷とて、申し伝えし所あり。
 海辺の方の山の谷間に、竹のこぎりにてひかれしを、その所に埋めて塚を築き、そのしるしに松を植えおきしも今にあり。その塚あたりの地より、おしくぼくなりてあり。見れば、わらづとなど多くはべれば、これはいかなることにやと尋ねければ、所の者申すは、このわらづとは、太夫 大悪人にて いきどおり深き者なればとて、だれ申しならわすとは無けれども、疫病(やくびょう)または おこりなど 流行(はやり)わずらいぬれば この塚に来て、この病いをなおしたまわらば 飯を供えんと願をかけ、病い癒(い)えぬれば、藁のつとに飯を包み、この塚に入れそうろう。いにしえより このくぼみ 深くも浅くもならずして、今日に同じことにてはべり。

 このころから山椒太夫という言い方があり、森鴎外のオリジナルではないことがわかります。私は京都大学本を見ているのですが、鴎外も見たのでしょうか。
 三庄太夫伝説がよく知られていて、完全に話の前提になってしまっています。地元が舞台の話なので、それこそ子どもに至るまで誰もが知っていたのでしょう。
 つまりこれは、説経節のさんせう太夫の物語が、浸透した後に出てきた習慣で、三庄太夫の強い極悪人たる力を 疫病退治にふりむけたものでしょう。
 藁苞(わらづと)というのは、藁を束ねた包みで… (11月25日12時19分)

ほら 納豆が藁で包んであるでしょう、あれです。新巻鮭も同じです。むき出しのままでは持ち運べないものを包むものです。 (11月25日14時16分)

 昨日の続きです。

 和江村十八町奥に、つし王丸の隠れし国分寺と申す寺、いにしえは伽藍ありて、ゆゆしき寺なりしが、今残るものとて石ずえばかりぞのこりける。
 この寺に三尊の阿弥陀をたておきしが、三郎 つし王丸を入れしかわごを切り落とし、あけて見んとせし時に、阿弥陀の方便にてやありけん、光 眼にふさがりて、気をとり失うとかや。
 堂破れてのち、その阿弥陀は国主よりあずかりたもうて、今に田辺におわします。
 つし王丸の姉安寿の姫は、せめ殺して捨てたるを、国分寺の住持 塚を築き、しるしに廟(びょう ほこら)を建てけるも今にはべり。見るに泪をもようさぬ人もなし。

 以上が全文です。この後に挿絵が入り、厨子王でしょうか 汐水を運ぶ人や塩浜が描かれています。あまりリアルではありません。
 ここでだいじなことは、「塚を築き」とあることです。やはり塚があったのです。絵巻物なんかに小さな塚の上に塔婆がたててあったりしますが、ちょうどそのようなことだったのでしょう。 (11月26日12時55分)

 カキコできるので、いつもうれしい顔です。

 田辺怪談録の物語は、おおむね説経節「さんせう太夫」のストーリーにもとづいていますが、一点だけことなります。国分寺のご本尊が毘沙門ではなくて、阿弥陀三尊になっていることです。しかもそれが田辺に行ったと。このあたり まだ調査できていません。
 田辺怪談録はだれが書いたものかというと、京極家の家臣 永田貞俊、元和9年1623のことでしょう。丹後の国が三分されて、田辺藩が成立した翌年です。嫡男の京極高広が丹後全部を相続できなかったので、腹いせに田辺城を壊して丸ごと宮津へ運んでいたころです。(トンデモナイヤッチャ) つまりこれが安寿姫塚について書いてある最古の本なのです。だからこれは、説経節を聞いたのではなく、その元になった丹後での三庄太夫伝説なのかもしれません。霊重さんが書いた「田辺府志」の内容とよく比べてみなければなりません。永田さんは自分の足で歩いた上で、達意の文章を書いています。 (11月27日14時30分)

瑞光寺の楠健誓さんがら「見つかったから」とお電話をいただいて、行ってまいりました。楠さんのお話は生き生きとしていて面白いので、つい1時間もお邪魔してしまいましたが、「一色系図」を見せていただきました。
 それには こう書いてありました。
「女子 不動如山瑞光寺ニテ得度スト」
 なに? 「・・ト」? つまり伝聞? 聞き書き? これでは確かにはわかりません。おまけに法名も書いてありません。またもや 時間のかなたに溶け込んで、霧の中で探さなければならないようです。
 それよりも、楠さんがふとおっしゃった、「一色のお姫様は、いつも建部山の方を向いて拝んでおられたということです」というお言葉が印象的でした。先日老僧が、西方浄土に向って手を合わせておられたのではないでしょうか、とおっしゃったことも心に残ったのですが、それよりも、赤い夕日に荘厳された建部山に向っておられた、お姫様のイメージが鮮烈でした。
 一色のお姫様は大事にされたでしょうが、一色の血を引くがゆえに、生きて世に出ることはなかったでしょう。そうであれば、生きながら葬られたも同然で、いっそ出家して自らと一色諸士の菩提を弔った方がすっきりするというものです。
 念仏三昧の日々を送って果てたのか、寺を出て京へ向ったのか、今はまだわかりません。
 南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ ナムアミダブツ (11月28日23時17分)

 たびたび登場する霊重(れいじゅう)さん、桂林寺の学僧の、ほら 和歌の下手な(ヒトのことを言えた義理じゃないでショ!)あの霊重さんは近世最初の地誌「丹後田辺府志」の著者です。出版されたのは1710(宝永七)年。
 その田辺府志に三庄太夫伝説が書いてあります。説経節「さんせう太夫」と筋は同じで、違っているのは国分寺で厨子王が入れられたのが古い筐(はこ)ということと、厨子王が梅津院と会ったのは、清水寺だったということだけです。
 いやいや もっと大きな違いは、安寿と厨子王がひどい苦労をさせられたこと、そこを身代わり地蔵に救われたこと、つまり物語の一番感動をよぶシーンがないのです。安寿なんか水汲みをさせられたというだけで、死ぬシーンもなにもマッタク出てきません。(ひどい!) 霊重さんは感情を出さないヒトなのです。まぁ ひたすら煩悩をはなれようと修行した禅坊主だから仕方ないか。
 それはともかく、注目すべきは、山椒太夫と書いていること。原文に当たっていませんが、これは出版された本なので、森鴎外も見た可能性が高い。
 それから、霊重さんはこれを書いたいきさつを書いています。末寺(由良の松原寺)を視察に行く途中に山庄太夫の屋敷跡を通りかかって、村の人に聞いた話だというのです。それが1681(延宝八)年のことです。つまり貝原益軒が「西北紀行」で通りかかった1689(元禄ニ)年より前です。田辺怪談録は京極の家臣が書いていました。ナニが言いたいかというと、丹後田辺で三庄太夫の伝説が語られていたのは江戸時代前期にさかのぼるということ、17世紀のことなのです。そこまでは確かめられます。
 「もっと!」って言われても、これ以上は資料がないんです。幽斎さんが和歌に歌っているわけでもないし、その前の一色氏の時代になると、丹後の様子はほとんどわかりません。ムリゆわないでください。 (11月29日12時19分

建部山が戦場になったことは、前後3回あります。
 一度目は、南北朝時代のはじめ、観応(かんのう 当時の年号)の擾乱(じょうらん 騒動)の際、足利尊氏勢が田辺城を攻めていたのを、河内に行けという命令が出されています。河内では南朝方の楠木正成ら悪党と呼ばれた武士たちが暴れていました。田辺城は南朝方だったようです。
 そのあと延文二年というから1357年のこと、和知の片山虎松丸は丹後攻めに加わり、田辺竹辺城を降参させました。城にいたのは南軍だったようで、その後丹後は北軍の支配地域になります。このころ田辺城とよばれているのは建部山城のことのようです。
 二回目は織田勢=細川幽斎軍が丹後を征服したときです。攻められた一色方は武部山城にたてこもり、細川方に攻められると中山城に逃げ、中山幸兵衛の裏切りで落城したとか、いろいろ言われているのですが、一色軍記などは矛盾だらけで、残念ながら真相はわかりません。
 ともかくこの2回の戦乱でたくさんの人が死に、近くの村々が荒らされたことは確かです。峠越えの道が通る下東ももちろん焼き討ちされたでしょう。家の裏山でいくさが行われたのですから、たまったもんじゃありません、村人も巻き添えになって殺されたかもしれません。
 3回目は今次大戦に高射砲陣地が作られ、米軍の上陸作戦を迎え撃つはずだったのですが、空襲されてポンポンと撃っただけで敗戦になりました。米軍機に当たらなかったし、だれも死なずにすんで良かった。
 田辺篭城戦のときも下福井で鉄砲の撃ち合いがありましたが、平地の海際でした。
 平和な建部山であってほしいですね。 (12月1日0時8分)

 先に紹介した「丹後国田辺之図」に、東舞鶴の竜勝寺に山舛太夫の位牌があると書いてありました。
 それから、私のおししょっさん楽々亭太丸師に教えていただいた資料に、縁起によれば竜勝寺は天平二年の創建なりと伝え、のと奥州岩城の判官政氏の一子対王丸 これを再興し、安珠姫および山椒太夫の冥福をいとなむ。応永六年一色詮範、膺選大和尚傘下に帰依す、とあり、一色氏と関係深く、一色義直の位牌がある、と書いてあります。
 一色氏が開基となっており、深い関係にあったことは理解できます。
 問題は、なぜ厨子王丸と関係があるのか? という点です。
 縁起というのは神話ですから、事実かどうかは問うところではありません。どんなに非科学的なことが書いてあってもいいのです。モンダイは、それを聞いた人が信じるかどうか、なのです。だれも信じられないことは縁起といえども書けません。
 ということは、この竜勝寺縁起が信じられるだけの理由があったということです。それは何か? ザット イズ クェスチョン!なのです。
 はーい! 私はソレを見つけました。
 「厨子王は『丹後の残り四百四町をば、二郎殿に、一色、総政所(まんどころ 事務長)に、参らする』と、お申しある。上代より、丹後の国の地頭をば、一色殿とぞ申しける。」
 これは説経節「さんせう太夫」の最後の部分、厨子王が丹後の国をどのように治めるか決めている場面。厨子王は丹後の国の半分を支配する事務長に、二郎を任命しています。ところがこれを語っている人がすでに間違って理解しています。この場合「一色」というのは、ある場所を完全に支配することをさします。ところが説経節師は、丹後の一色氏の政所(事務長)と誤解しています。だから、続けて「上代より丹後の国は・・・」と言っているのです。
 ここまでのところ、わかってい… (12月1日21時37分)

これまでのところ、お分かりいただけた方はガッテンボタンを押してください。(ガッテンガッテン!)
 それで厨子王はなぜ一色氏になるのか? という疑問が残っていますね。
 一色氏の政所(まんどころ)を任命するのは、一色氏の一番偉い人に決まっているじゃありませんか。政所というのは一色氏の家来の中の長官ー事務長だからです。つまり厨子王は一色氏の当主ということになります。つまりつまり 一色氏のご先祖さんです。
 とーぜんのことながら、このような理解は説経節「さんせう太夫」がはやっている時のものです。丹後では子どもでも知っていました。そのころであれば、一色氏の祖先が厨子王だということが信じられたのです。それは江戸時代の初期のことです。
  (12月3日0時25分)


 ようやく竜勝寺縁起を見ることができました。でも 正直に言うと、私はあっけにとられてしまいました。大正八年という新しいものだったからです。私はてっきり古月和尚が書いたものがあると思っていたのです。えっ えぇ ちょっとがっかり。
 ともあれ ニンフちゃんにはお世話になりました。ニンフちゃんは可愛い新妻さんです。お願いすると、息せき切って駆けつけてくれました。(かわいーぃ! 私が胸をときめかしてもショーがないのですが、また落っこちちゃいそう。) それで、デジカメで撮影した映像を、これもニンフちゃんが作った舞鶴地方史研究会のHPに、のっけてくれたというワケ。カノジョはパソコンに強いのです。ねっ 頼もしいでしょう。
 縁起の研究はまだこれからですが、ご注目なのは、一色満信の女(むすめ)は舞鶴瑞光寺に入り尼となる、とあることです。一色系図に出家したと書いてあったのは、これを見たのでしょう。
 この記事の元になったものがあるはずなので、調べなければなりません。幸い「寺訓」も撮影させていただいたので、釈文を作って、持って上がったときにお尋ねしてみます。
 もう一点は、「対王丸再興記」が『風流袋』25編 30巻に収録されているということ。どちらも初耳です。まだ知られていない資料のようで、ワクワクします。さっそく探してみましょう。といってもアテがあるわけじゃありませんが・・ (12月4日19時18分)

 竜勝寺の縁起に、一色満信の男の子は、竜勝寺に入って出家し、一色詮範以後の一家一門の冥福を祈った、とあります。瑞光寺に入ったお姫さまと同じ運命をたどったのですが、彼の名は、法名ですが古月元公、呉音読みだと「こぐわちぐわんく」となります。今の発音だと「こがちがんく」ですね。
 古月の墓は竜勝寺の住職墓地にあります。中央に開祖の方鏡上人、その右隣に立つ位牌形の石塔、きわめて珍しいですね。座元禅師とありますから住職だったのでしょう。お寺を盛んにすることによほど功績があったとみえて、中興開基とされています。
 亡くなったのは1641(寛永十八)年ですから60歳です。彼の一生は戦乱のない時代でしたが、寺を出ることはきっと許されなかったでしょう。
 竜勝寺の裏山には山城があり、近くの倉橋城と結んで、舞鶴東部の拠点でした。一色氏・延永氏・上羽氏などが城主で、近くの金谷には鋳物師(いもじ)がおり、宮ヶ谷に清目(きよめ)も住んでいました。ちょっとした町のようだったことでしょう。 (12月5日21時37分)

10月16日に天空から落っこちて以来、よしなしごとを書いてきましたが、私はもう冬眠しなければなりません。えっ 冬眠は1月からではありません、あれは熊のことです。
 たくさんのいい出会いがあって、とても楽しかった。あたたかくなったら、また はいでてきます。冬眠中も寝ぼけまなこで化けてでるかもしれません。私のありし日の面影を偲びたい方は、(コラコラ 勝手に殺すんじゃない) 舞鶴市民新聞のマンガ「カブちゃん」を見てください。あれに出てくる神主さんは私がモデルなんですって。もちろん実物は、もっとハンサムです。(異議の申し立ては却下します!)
 それでは ぴょんこさん、皆の衆、おやすみなさいぃ・・・・・ (12月6日22時7分)



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